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陽はまたのぼるとmixi,Facebookとの決別

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『ぼくは耐えられないんだよ、人生が飛ぶようにすぎていくのに、こっちはただ流されてるだけだと思うと』
(ヘミングウェイ作『陽はまた昇る」より。』)



面白い!と思った小説や、これは抑えておかなきゃ!!という
名作文学に関しては2回以上読むようにしています。


そうでなければ、どんなにいい!!とそのときは感動したとしても、
7年ぐらい経った暁には、すっかりと忘れてしまうことが多いからです。


大学時代にあんなに読み漁ったゲーテやヘッセの小説も、
いまや残念ながらのうろ覚え~~~。




そんなわけで、前回ブログでも書いたヘミングウェイの小説
『陽はまた昇る』の2回目をすっかりと読み終えたので、
(またしてもモヒート片手に中南米気分で。(笑))
記録として、ここに残しておくことにします。
http://chatotone.blog.fc2.com/blog-entry-831.html
あー楽しかった!!!


旅に出ている気分になりますね。
特にスペイン旅行のあたり!!
ゴヤの絵画やフラメンコ、オペラ「カルメン」などで
闘牛士について、これでもか!!という描写がされているのですが、
『陽はまた~』の闘牛の描写は、まさに圧巻!!です。
今までそんなに興味がなかったけれど、猛烈に観たくなりましたもん、志高い闘牛士の勇姿を!!!



この作中の登場人物たちは、
とにかく飲む!!とりあえず飲む!!!飲みまくる!!!!
そして無駄につるんでます。


「失われた世代」といわれる、禁酒法時代のアメリカのロストジェネレーション時代。
世界大戦を経験し、若者たちは生きる目的を見失い、社会に絶望し、
ただふらふらと無駄に、向上心もなく、享楽と快楽に溺れるような…そんな時代の象徴的な作品。


だからこそ、飲む!つるむ!飲む!つるむ!!!
の長編小説、なわけ。


小説にも出てくる台詞なのですが

『牛が殺意に駆られるのは、自分だけになったときなんだ。』
『あんたは虚勢牛になりたがってるんじゃないかと思ってたぜ。だってあいつらの暮らしは至って平穏なんだろう。
で、何も言わずに、いつもだれかに付きまとってりゃいいんだし。』
(闘牛のシーン。)


うーん。この物語を暗示するようなお言葉ですね。


私にも、そういう時代はありました。
やたら飲んでつるんで、集まって。歯の浮くようなおべんちゃらを言い合って。
その場を丸く収めたくて、腹の中では違うことを思ってるくせに、
表ではいい顔とおべんちゃらの嵐。
うっすーーーい水割りよりもうすい、飲み仲間。
別にそれはそれで楽しいかもしれないけれど、
そうではない人間関係の素晴らしさを知っている自分にとっては、
その中で満足しているような人たちの中で埋もれたくないと思っていた。

誰もお互いのことなんて思い合ってない。
楽しければ一緒にいるけど、
いざとなれば、あっさり裏切るであろう仲間。
大してストイックな努力もしてなければ、荒波に揉まれても
何かを極めよう、なんて思ってる人間は皆無のくせに、
井の中の蛙のくせに、おべんちゃらを言われてその気になっている人達。

おだててるやつらなんて、
その場を気持ちよく盛り上げようと思っているだけで本心なんかじゃないのに、
すっかりその気になっていて、
言われる方も、言ってる方も、
そういうやり方でしか、他人をつなぎとめられない、みたいな、
それが最善の世の中の渡り方、みたいな、そういう浅はかなやり方がすごく薄っぺらくて嫌だ!!!!!


幼い頃から、私の周りにはそういう人間が少なくて、
どちらかというと、自分をしっかり持っていたり、何かに向かって
必死に自分を高めていたり、そういう人たちが多かったように思うので、
とても尊敬できる人達が周りにいました。

私もああいう風になりたくて、必死に舵をとって漕いでいたら、
気付いたら周りにへばりついてきたのは、ヘドロばかり。




それに気付いたのは25歳ぐらいを境に次々と、という感じでした。
まさに『素晴らしい悪夢』だったわけです。



ああいうところで満足して終わる自分にはなりたくなかった。


その一方で、まだまだ未完成でも、必死に厳しい試練のもとで
オペラの訓練、勉強を続け、ただただ自分の理想を目指して努力を続ける仲間達も大勢できて・・・


その対比で、色々考えさせられた、蒼い青春。(笑)


6年やっていたmixiや、FacebookというSNSを
今年に入ってあっさり辞めてしまったのも、
結局はそういうのが原因でした。

mixiはマイミクが220人、Facebookは気付けば2カ月で110人以上の友達と繋がってしまい、
雑音だらけのノイジ―状態になってしまって、
私のなりたくない自分の醜い姿や、築きたくないうすっぺらい人間関係の典型を
築いてしまっていることに、ある日はたと気付いてしまったから。


もともと他人の見栄や自慢の話ばっかりで読んでても中身がない、
何の糧にもならない、時間がもったいない、
そうこうしているうちに、自分自身もそのつもりはなくても、
気付けば自慢話のようになっており、
くだらない人間に成り下がっていた。


そうこうしているうちに、他人の文章を読んだら無言では申し訳ないから、
コメントをつけなきゃ、とか余計な気遣いをしてしまうのが疲れるし、
共感できない人たちの興味のないくだらない話題にいちいち反応したり、
また周りがしてるのを見てると、本当に疲れてきてしまった。。。

おまけに私の好きだと書いていたアーティストや音楽、趣味を
そのまんま平然といかにも書いてる友人??(元友人?)にも
自分の世界・テリトリー・ペースを乱されて理解に苦しんだし、
あれだけ裏で悪口言いまくってるのに、
表でいいツラしてる人間を見てるとただでさえ鳥肌なのに、
そうなっている自分にも友人たちの言動にもほとほと嫌気がさして、やめました。


今は、やめて心の底からすっきり!!!そして幸せ!!!
もう二度とやることはないと思う!!



やっぱり私は気ままに書けるブログが性に合ってるわ~~!!
おまけに時間も充実して、
今まで以上に色んなことに時間が費やせるし、色んなことに集中できる!!!
時間の使い方、物事の集中の仕方が全く違います。
やっと本来の自分、人間の在り方に戻った、という感じ。

あれはなんだったんだろう、という気分です。



だから、いまだに色んなSNSのご招待をいただくのですが、
私はしばらくはやりません!!!あしからず。


やっぱりしっかりとした人間関係を築きたい。
本当の友達なんて、あんなバーチャルな世界でできるわけないし、
本当に会いたかったら、手間暇かけて連絡して会いにきてくださいって思う。
そうして本当に価値観の合う、一緒にいてキモチのいい人ばかりがそばにいてくれる。
ありがたいことです。



ま、そんなこんなで「陽はまたのぼる」を読んでいると、
そんな自分の私情も思い当たる節があったりなかったりするのですが、
その一方で、

「一貫して自分を高めている」ロメロ

という闘牛士の、真摯なプロ精神と生き方が対比されるように
登場します。


こういう言い方を、周りのヘドロは
『闘牛士には興味がないな。あれはちょっと異常な生き方だもの。』
『いま完全燃焼して生きてるやつがいるとしたら、闘牛士くらいのもんさ』



と、ちゃかすのですが、
周りの「プロ」と呼ばれる人たち、尊敬する人たちの姿を見ると、
それはとても闘牛士の姿勢に酷似しているのです。

また、私の所属するオペラ研修所で常に求められていた姿も
「闘牛士」の姿そのものでした。



私は、どちらの人間なのだろうか?


そして、どうなりたいのだろうか??



どうなりたいか?ということは、自分ではよく分かっています。
私は、暇を持て余してブラブラしているような、
そして自分のやりたいことしかやらないで「多趣味」とか言ってるような人間ではなくて、
もっと酸いも甘いもを経験し、困難や挫折を乗り越えて
精神的にも研ぎ澄まされた、「本物」になりたい。

うわっつらだけを真似る「●●ごっこ」や
厳しい世界を知らずして、ドヤ顔でそれを語るようなやつらにはなりたくない。
(そういう人も多いから、どうにかしてそこから逃げたいのですが…
どうも私もそれと同類なのでしょう。ヘドロばっかり付いてきた時期があります。)



でも、現実はそれとはまだまだ程遠いところにいることも自覚しています。


オペラの師匠に以前、そのようなことをお話したら
「ヘドロがたくさんへばりついたときは、それより早く泳いで振りきればいい」
と言われました。


とある人には
「「目標に向かって無我夢中で上を目指して集中していると,ある日突然自分の予想を遥かに超えた結果を手にすることがある。今までの自分の力以上の力を発揮するときがある自分で自分の限界なんて決めるな。まっすぐ上だけ見て,今はがむしゃらに無我夢中でやれ。周りを見て落ち込んだり愚痴ったり落ち込んでいるヒマなんてないで。自分の目標をしっかり持って全力で力を出しきれ。今は先が見えなくても,気付いたらここまで来たなと思える日が来るから。下ばかり見ていると、そこに自分が下がってしまう。周りを気にせず上だけを見ていると、やがて上にいる素晴らしい人たちが自分を引き上げてくれる。」



・・・さて。
そんなありがたい言葉を私にくれたある人に、このヘミングウェイの
「陽はまた昇る」は、とても素晴らしい賛辞の言葉でこの物語を飾り立てておりました。
バーテンダーとしての誇り高きあなたに、これを送ります。


『不思議だね、大きなホテルのバーにはなんとも素晴らしい優雅さがあるんだ』
『きょうび、礼儀をわきまえている人間は、バーテンダーと競馬の騎手くらいのものだわ』
『どんなに俗っぽいホテルでも、バーだけは素敵だからな』
『バーテンダーは、昔から優雅な人種だったよ』



うーん。いい言葉だねー。ダンディだわ。
ダンディ。そう。キザでダンディな物語なのです。「陽はまたのぼる」。














『これでいいのだ。恋人を旅立たせて、ある男と馴染ませる。次いで別の男に彼女を紹介し、そいつと駆け落ちさせる。そのあげくに彼女をつれもどしにいく。そして電報の署名には《愛している》と書き添える。そう、これでいいのだ』




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[ 2012/04/12 20:06 ] 読書 | TB(0) | CM(0)

PaperBackCafe




お友達のさちと
御茶ノ水~神保町を歩いていたら、小粋なお店を見つけました。



「Paper Back Cafe」。




最近流行りのブックカフェですね!
面白い!!
本屋さんに隣接されたカフェでコーヒーを飲みながら、新書を楽しめるというわけ。



学生時代、
マナハウスという書店内でコーヒーを飲みながら大学の教授に誘われて、ドイツ語の勉強会をしていたことを思い出す~~~!




本屋って面白い☆


大手さんはもちろんですが、こだわりの小さな街角本屋さんも大好きです。
古本屋さんも、何時間も入り浸れる。



ビレバンとかラクダ書店という、へんてこりんな書物のある本屋さんも大~~~好き!!


御茶ノ水~神保町はこれまで殆ど用がなかったのですが、本屋さん(古本屋さん)と楽器屋さん、レトロな喫茶店だらけで、とても心惹かれる街だなぁと楽しくなっちゃいました!


-ちなみに、ペーパーバックカフェで購入したのは、
写真の通り、毎年恒例のNHKラジオ講座のテキストたち。


毎年、桜の季節になるとやりたくなります。


ドイツ語や英語のNHKラジオのテキストは、
高校一年生のころから10年以上買っているし、


最近は英語はテキストを買うまでもありませんが、(リスニングオンリー)
欲張りにも数年前からドイツ語、フランス語、イタリア語の三点セットを毎日聴くようになりました。







…………ま、毎年6月頃には挫折するんですけどね(苦笑)f^_^;





長く持って7月だろう。。。


調子がいいときは10月からの後期開講でリベンジするのですが、
だいたい10月には日々の業務に追われて、それどころじゃなくなり、すぐ挫折しますねf^_^;
早起きツライし(´~`;)


今回もはてさていつまで続くやらと思いながらも、
思い立ったが吉!!
ということで、熱意があるうちは頑張ろうと思います(笑)


ちなみに、台湾旅行帰りのさちは中国語を頑張るんだそうです。


お互い頑張りましょう!!


NHKラジオ講座テキストを手にすると、
いよいよ春だ!4月だ!と浮足立つのを感じます。


外はまだまだ寒いのにね。


[ 2012/04/05 08:29 ] 読書 | TB(0) | CM(0)

◆ラルフローレン×ジャズエイジ◆

 







コーヒーを片手に愛読書雑誌の「FIGARO」をパラパラめくっていたら、



ラルフローレンがジャズエイジをコンセプトにしたファッションが掲載されていました。



素敵!!!



私の大好きなスコット・フィッツジェラルドの小説『グレート・ギャッツビー』の世界を流麗なモードで展開、ですって!!!

[FIGARO]HP↓
http://feature.madamefigaro.jp/style-figaro/




麗しいですね~~~。




グレートギャッツビーやジャズエイジといえば、最近私もブログで紹介したばかり!!


こちら↓
http://chatotone.blog.fc2.com/blog-entry-915.html

http://chatotone.blog.fc2.com/blog-entry-913.html

http://chatotone.blog.fc2.com/blog-entry-911.html



まさにめーっちゃタイムリーな特集だわ☆



ちなみに、ジャズエイジとは音楽のことを直接指しているわけではありません。
そう呼ばれていた1920年代の時代のことです。
私にとって60年代の英米、80年代の日本と同じくらいかそれ以上に!?
惹かれる文化の華開いた時代です。
(あとは18世紀の革命時代とか、旧約聖書の時代とか中世ヨーロッパもねw)



ファッションの世界も奥が深いですね!!

[ 2012/03/27 23:33 ] 読書 | TB(0) | CM(0)

グレート・ギャッツビーの華麗なる時代





先日は仕事帰りにSoup Stock Tokyoに立ち寄ってスープをW飲み~。
スタンゲッツをイヤホンで聴きながら、まったり読書をしてました。
ブログでも何度もご紹介しているのですが、私のお気に入りの小説のひとつ
F・スコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャッツビー」。


2010年10月21日ブログ
http://chatotone.blog.fc2.com/blog-entry-913.html
2011年3月2日のブログ
http://chatotone.blog.fc2.com/blog-entry-911.html


絢爛豪華に咲き誇るもむなしく、儚く散りゆく花びらのような物語。

享楽と世俗にまみれたギャッツビーの中にひそかに潜む、
常に高みを目指す健気さと、夢を追い続ける懸命さ、
狂おしいまでに純真な恋を胸に抱き続けるギャッツビーに
とても共感を覚えていて、自分と重ね合わせる部分もありながら、
また、それに反して、憤りを感じるまでの世の中の不条理さ、いい加減さに
うんうん、そうそう!!と相槌を打ちながら、
とにかく大好きで1年に一度は必ず読み返しております。



野崎孝さん、村上春樹さん、小川高義さんの訳をそれぞれ読んだのですが、
一番読みやすく、またギャッツビーが人間臭くて、ときにかわいらしくて、
ありありと情景が思い浮かび、うんと感情移入できたのが
小川高義さんの訳。


また新鮮な感動がこみ上げてきました。



時代は1920年代のアメリカ。禁酒法・ギャングが蔓延したジャズエイジ。
(↑上述のURLのブログ参照。)

フィッツジェラルドの言葉を借りれば
舞台は「川の向こうの、白く、うずたかく、角砂糖のように立ち上がる大都会。
うさんくさい金をうさんくさいと思わず、金で願い事をかなえた街」。


その郊外のイーストエッグの大豪邸に住むギャッツビーと
主人公「ぼく」との出会いにより、この物語が花開きます。


時代に翻弄され、典型的な「アメリカンドリーム」を追いかけた
ギャッツビー青年の儚くも切ない恋のお話です。



これを初めて読んだ頃、フランスの名作映画『シェルブールの雨傘』を
観たばかりだったので、このふたつの物語に、私は共通の、
胸の柔らかい部分を掴まれ、息もできなくなるような切なさを覚えたのです。


両作とも、時代も国も違うのですが、
「兵役に行き、すれ違う二人の若い男女」
「もう後戻りのできない甘い過去」
という点を絶妙に描いている、という点で、通じるものがあるのかな、、、と。


ギャッツビーの現在の華麗な姿は、
実は17歳の頃に自分が思い描いた理想像で、こうなろうと決意し、
そのために必死に努力を費やしてきて、追い求めてきたそのままでした。

この部分、すごくよく共感できます。
私も、子供の頃から「こうなりたい自分」「こうなっていたい自分」というのが、
多分人一倍強くて、
その理想を辿っているときの自分はとても幸せで満ち足りており、
努力を怠り、その道から外れてしまったときの自分は、
すごく嫌いで自己嫌悪に陥ります。





良く言えば「向上心がある」と評され
悪く言えば「理想が高すぎる」「自己承認が低い」
ってことなんですけど。



しかし、
ときにそれが今の自分自身を縛りつけ、
今の自分の行動を制限し、
果たしてこれは本当の自分なのか???
ウソ偽りの姿を演じているのでは???

と思うことが多々ありました。
自分に無理をさせている、というか。。。。
「こうでなければならない」という自分への思い込みが強すぎる、というか。。。



大人になってから、だーいぶ緩くなり、かなりナチュラルで
みっともない自分になりましたけど、
それでもやはり、子供の頃に見た夢を未だに追いかけ続け、
社会の流れと逆行している節は根強くあります。


だけど、努力すれば必ず叶う、という思い込み!?は、
大人になるにつれて、必ずしもそうではないのだ、ということを
この小説は語りかけてきます。


印象的なのは、以下の文章。


「私は砂に座って、遠い昔の未知の世界に想いを馳せながら、
青々とした芝生にたどり着くまでには長い道のりがあったはずだ。
ここまできたら、ほんの少しで夢に手が届きそうで、
掴み損なうことがあるとは考えなかったろう。
夢が後ろにあるとは思いもよらなかった。
もう夢は、都会の向こうに広がる巨大な闇、この国の暗い原野が
うねって続く夜のせかいへ言っている。

ギャッツビーは緑の灯を信じた。悦楽の未来を信じた。
それが年々遠ざかる。するりと逃げるものだった。
いや、だからといって何なのか。あすはもっと早く走ればよい、
もっと腕を伸ばせばよい・・・そのうちに、ある晴れた朝がきてーー

だから夢中で漕いでいる。
流れに逆らう船である。そして、いつでも過去へ戻される。」

(※小川高義さん訳より引用。)



夢を追い続け、着実に、忠実に、たゆまぬ努力を続けても
ある日突如として、その道を閉ざされることがある。
それが、この小説の中に描かれていますし、
例えば、震災などという災害で、夢の途中で断念しなければならないこともあるのだと、
改めて気付かされ、とても悲しい気分になるのです。



私自身も未だ理想を追いかけ、まだまだしぶとく夢の途中ではあるのですが、
その夢が、どうにもかなわなくなる、そんな日がある日突然やってきたら、どうなるだろう。。。。。




そして、健気でまっすぐなギャッツビーの周りをうろつく人間模様は、
こんな有様。




「このトムは、私から見れば、許せない男、いけすかない男。
とった行動は正当であると自分では理屈を通しているようだ。
いいかげんの極地である。トムもデイジーもいいかげんにできている。
まわりにあるもの、生きるものをすべてぶち壊しにしておいて、
金銭というか、いいかげんな態度というか、ともかく
二人を結びつけている原理に戻って、ごたごたの後片付けは人任せ…。」
(※同じく小川さんの訳より引用。)

うんうん、そうなのです。

見かけだけの金や華やかさ、見た目などだけで
寄りついてくる腐った人間って必ずいる。
そういう人たちに限って、浅くていい加減な繋がりなのです。

どんなに相手のために誠実にこちらが義理を尽き通しても、
あのときのご恩やなんやらはどこへやら。
いい加減にできてる人種は必ずいます。
そして私の周りにも、たくさんうろついてました。
もう、殆どいなくなりましたけどね。


こういう人間関係は築きたくないなぁ・・・。
そう思ってから、自分の周りには心から尊敬できるような
とてもいい人ばかりが残ってくれました。


でも、世の中の大半がいい加減にできている、と思います。
適当にやりすごしている、というか、
自分さえよければいい、みたいな。
昨年の震災の折にも、幻滅する節がたくさんありましたしね。
だからこそ、こんな世の中に何を期待して、どう生きるか、
だと思っているのですけれど。


本当の豊かさって、
富や名声や見かけだけの華やかさではなくて、
例え何もなくても、例えば自分が祝福されるべきときに
大勢の人がいかに心から喜んでくれるかだと思うし、
例え自分が死んだときに、たくさんの人が涙を流してくれる、
そういう人生じゃないかな、


と、この小説を読むたびに思います。


ウソ偽りの人間関係、
尊敬できない上司や先輩にしか頼れない、
自分のことしか見えていない、
そんな人生しか知らないひとは、不幸せだ。


私は、そんな人間関係に媚びていくしかないならいらない。
だから必要だと思うものしか、もはや選ばない。


「グレート・ギャッツビー」を読み返すたびに、
ふと自分の在り方と照らし合わせてしまいます。




グレート・ギャッツビー、映画化もされているらしい。
いつか観てみたいな♪
(フィッツジェラルドの作品「ベンジャミン・バトン」の映画は観ましたが。)





[ 2012/03/20 21:22 ] 読書 | TB(0) | CM(0)

モヒートを飲みながら




読書中♪





モヒートといえばお約束の作家・ヘミングウェイの『陽はまた昇る』の世界を旅したくて、読み返し中なのです。



いつ読んでも、男のロマンです。




私の中でTHE・男の美学!!!!といえば、映画『グランブルー』か小説『陽はまた昇る』ですね。


どちらも大好きな作品です。
『陽はまた…』は、若かりし頃にバックパッカーとして、世界中を何カ月も旅していた時代を思い出してしまう。



それに私は女ですが…。
感覚としては『ダンディズム』や『凜とした潔さ』『男前な女性』に究極の色気を感じるし、惹かれるのよね。


だからか最近、ハードボイルドな世界観に浸りたくなるわけです。



ちなみに。

南米・キューバ発のモヒートやダイキリ、マティーニといえばヘミングウェイの愛したカクテルとして有名です。


その爽やかな味わいは私も大好きです☆



外は極寒ですが、
夏を感じさせるモヒートを敢ー!えー!てー!飲み、
気分だけでも高揚させるわけです。



そしてヘミングウェイの描き出す、
パリのカフェでのワイン、葉巻、コーヒーをセットに、
ボクシング、釣り、スペインの闘牛士に、キラリとした『男のロマン』を見つけ、
私も一緒にその世界を放浪し、


そして、賑わしくどんちゃん騒ぎだらけの騒然たる物語の中に、終始重低音のように鳴り響く『虚無感』を、

まるで味のしなくなったガムをいつまでも噛み続けるかのごとく、





噛み締めるのです。






嗚呼。私たちこそ紛れもなく、ロスト・ジェネレーション。

でも、私はその中にうずもれやしない。



[ 2012/02/06 20:13 ] 読書 | TB(0) | CM(0)