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あいちトリエンナーレ2013を振り返る②



あいちトリエンナーレ2013を振り返っての続きです。



今回は所変わって愛知県美術館へ。


前述した会場とはガラリと雰囲気が違った気がしたし、
三年前の県美の展覧会ともまた全く違う趣向の展示だったように思います。


ある人は、今年の県美の展示はイマイチだ、と言いました。
しかし、私にとっては今回の愛知県美術館の栄会場のメッセージ性が、
他のどの会場よりも1番胸に突き刺さりました。

感覚や感性というよりも、
今のこの時代、移ろいゆく社会と価値観、アートをストレートに表した、
社会派の展示であったかと思います。



ヤノベケンジさんの作品。





















東日本大震災を機に制作が始まったというサン•チャイルドシリーズ。
このつぶらなマスコットの瞳からは一見考えられないけれど、
《希望•再生•復活》をテーマとした作品たちです。
現代版•鉄腕アトム、といったところでしょうか(笑)
サン•チャイルドが手に持つ太陽は、
チェルノブイリの保育園で描かれていた太陽の絵なんですって。


サンチャイルド島は、モンサンミッシェルをモチーフに、
そしてモーゼの海を割って歩くエピソードを元にして造られた作品。
海の底に眠る街。
『こんなものがあったらいいなぁ』というものが、詰まった作品。


それを見てふと蘇ったのは、自分自身の幼少の記憶。





小学校にあがって間も無く、
ニュースでは湾岸戦争が始まるだのなんだの、しきりに報道されていました。
真剣にニュースを見守る祖父を見ていて、背筋がぞっとするような緊張感を覚えています。
学校の図書室で、男子たちが騒いでいた『はだしのゲン』に、目が釘付けになってしまったのも、あの頃。
そして日曜6時の『ちびまる子ちゃん』のノストラダムスの巻で、1999年に世界が滅亡する、という大予言を知ったのも、この時期。


この世界が守られたらいいのに、
と幼心なりに、思いました。
私の家族が、大事な人達が、世界中の人達が、
戦災や災害から逃れられる、強靭なシェルター。
自分の通学路や親の通勤路に、
例え原爆やミサイルが落ちてきても、
富士山が噴火したり、隕石が落下してきても、びくともしない鉄製の頑丈なトンネルがあればいいのにー。

そんなことを考えていました。



今の時代の子供たちは、
特に東北に住む子供たちは、
どんな景色を見てきて、
何を想うんだろう??
どんな希望を抱いているのだろう。


ヤノベケンジさんの作品には、
これがあったらいいのにな、という希望が感じられました。




他にも、
ヤノベケンジさん作のチャペル、
《太陽の結婚式》では実際に結婚式を挙げることもできるというもの。
神々しい光と教会、
描かれる太陽。

フリーメーソン的な要素を感じます。
モーツァルトのオペラ《魔笛》の二幕を観たときのような感覚。


得体の知れない希望と未来を感じました。



回転する都市。








宙づりにされて、
ぐるぐる動き回る都市のジオラマ。
ビルや家々がこんな風に動くなんてあり得ないお話だと思っていました。

けれども、東日本大震災では、
それが現実となりました。



復活












福島第一原発神社






重々しい現実がのしかかってきました。
芸術とは、夢のある妄想や愛を表現したものだと思っていました。
なのに、華やかな夢見る芸術なそこにはなく、
重たい現実のリアルと、信心の拠り所のコラボレーション。
今の時代に根ざすアートは、限りなく社会派のものなのかもしれません。

時代と共に生き、時代と共に流れ移ろい、
そして時代を表し、
時代に根ざすもの、
それがアートなのだと改めて感じます。



三年前のトリエンナーレでは、
このような作品は一切ありませんでした。



科学のテクノロジーの発達と
あの東日本大震災を経て、
今はどんな時代なのか
人々は何を想うのか。
それを表現することが今を生きること。
まさしく2013年の芸術は『なう。』は『今でしょ!!!』
に象徴されるものなんですね。




ソ•ミンジョン『ある時点の総体』















この作品なんかすごく印象に残りましたね。

名古屋市市政資料館を発砲スチロールで実寸大に模倣し、それが崩壊する瞬間を表現したもの。


建物が崩壊する瞬間が永遠にそこに留まっている、という状態。
本来ならあり得ないですよね。

瞬間を捉えることなんて不可能なのだから。
時を静止させることなんて出来ない。

現実は時と共に流れていくもの。
けれども、人々の心の中で、切り取られた一瞬の瞬間が、ストップモーションで生きていることがある。



それを、永遠と呼ぶのかもしれない。



この作品をみて
私が思い出したのは、
東日本大震災のあの瞬間。
東京の路上で、ガラスがバリバリ響いていたあの瞬間。


私は、あのときの光景を、
強烈な風景として記憶にとどめていたはずなのに、
気付けば時間の経過と共に、
あのときのことが過去のあったかなかったか分からないものとして、流すようになってしまっています。


それは、この作品のように、
瞬間をいつまでも捉えることができないから。
記憶や想いは、移ろいゆく儚いものなのだと改めて感じました。

だけど、この瞬間に身を置いていたことは確かに現実の事実である。


被災された方の中には、この瞬間から時が止まってしまっている人がたくさんいるのかもしれない。
それとも、時間の流れがこのときから動き出した人もいるかもしれない。

いろんなパターンがあるけれど、
瞬間を記憶にとどめることについて、考えさせられました。
そして、東日本大震災のことも。




オノ・ヨーコ『七幸八宝』











世界一有名な日本人!?オノヨーコさんの精神論が伝わってきます。
彼女はとても強烈で誤解されやすい人のように思うけれど(笑)
作品はいつだって、とても純粋でただ綺麗なように思います。
実はものすごく前向きで、愛や喜びを表現したいひとだと思う!


トリエンナーレの期間中、
名古屋の街はテレビ塔を始め、
街中のいろんなところに
『生きる喜び』『JOY OF LIFE』
という文字を展示し続けました。
看板から、壁から、テレビ塔の中央から‥。

彼女は、旦那さんのジョンレノンが殺されたとき、
世の中からバッシングを受けたとき、
きっと想像を絶するほどの苦悩を受けただろうに、

それでも自分の敵だと思える人の幸せを祈り、祝福し、
そして『七難八苦を与えたまえ』という有名な言葉を変えて、

『七幸八宝を与えたまえ』という言葉を祈ったんですって!


それからというもの、
彼女のその願いは未だにゆっくり叶い続けている、というのです。


このオノヨーコさんの作品を見ていると、
このキラキラした儚い幾数もの無限の光に心を奪われました。


まるで宇宙に散らばる無数の光。
宇宙を構成する分子や原子、塵のように、
ふとミクロな世界に心を向けると、
こんなにも数えきれぬほどの輝きに満ちていることに気付く。


オノヨーコさんの作品は
純粋に綺麗で、
世の中にはこんなにキラキラしたものがたくさんあるのにな、と改めて思いました。
なぜそのことに気付かず、みようとせずに生きていこうとするんだろう??


世の中には、人生の中には、
無数の喜びと輝きがあるのだと改めて感じました。




科学技術の進歩に関心を寄せるターニラの映像作品。





チェルノブイリ原発事故後、
人口六千人ほどの小さな北欧の街に、西洋に初めて作られた原子炉の開発の様子を、淡々とドキュメンタリーで映し出される作品。

経済効果を生む原子力エネルギー依存と小さな町の運命が、冷淡とも言えるほど冷静に描かれていました。

現代というものは、
科学技術と芸術が融合される時代なのかぁ。。。
自然美を称えたボッチチェリとか、
ひたすら美しくて華やかで麗しいロココ調を今の時代のアートとして表現するのは違うのか。

私たちの時代はこういうものなのか。


作品を通してそんなことを考えさせられます。



しかし、クラシック音楽、古典を学ぶ私にとって、
芸術とはあくまで時代を超えても普遍的に美とされる高尚なものを追い求める究極の『道』でありたい、と思うのです。

もちろん現代アートも大好き!
破壊的なパワーや圧倒されるエネルギーにも感動する!
ときには泥臭いものでもいい。
でも最終的には、芸術とは、
色とりどりの美しい五月の花畑を見て、
嗚呼綺麗だな、自然からの授かり物は素晴らしいな、
と思える心と同じものでありたい。


それは華道家の假屋崎省吾さんが同じことをおっしゃっていて、とても共感したことです。

もちろん、岡本太郎さんのように、
芸術は爆発だ、とか、
芸術は破壊的なものだ、
というのも面白い刺激で好き。
でも面白いな、と思うだけで、
その精神が自分の血肉として落とし込まれる感じではない。


そういう意味では、ターニラさんのような作品は、
喜びや癒し、愛や美が存在するものではありません。
美しいか美しくないかと言われたら、美しくはないです。
しかし社会への疑問や問いかけは猛烈に感じます。




他にも。

画面に360度映し出されるダンサーや




スピーカーの歌うレクイエム?(鎮魂歌)













これには衝撃を受けました。
一つのスピーカーに1人の美しい声。
ソプラノ、アルト、テノール、バスの美声が1人ずつ聞こえてきて、
それが重なり合って、荘厳な重々しいレクイエムが歌われます。
スピーカーの音響効果も合間って、会場を揺らすような大共鳴。
ハッキリ言って鳥肌が立つほど美しい!
そして幻想的!!


‥ただ。
私にはこの作品が、一種の実験的な要素にも思えながらも、
それ以上にテクノロジーの発展に対する皮肉のように思えるのです。


私自身、レコーディングの仕事などで現代の機材やコンピュータ技術の素晴らしさに触れることがあります。
それと同時に、普段はナマの響きで勝負をするクラシック音楽の人間の私。

レコーディング技術に対する難しさや簡単に処理される物悲しさ?を感じている日々です。


スピーカーに簡単に処理されてしまう現状は、
私たち人間の存在価値の真価を問われると共に、
生身の人間にしか出せない温かみや、心の大事さを感じさせられます。


やはり芸術は心、なんですよ。
ただのスピーカーではどれだけ上手くてもダメなんです。


メールやネット、LINEなどが便利で簡単な時代だからこそ、
手間暇をかけて筆ペンで丁寧な文字を書くことがどれだけ大切で価値ある行為なのか、ということに似ていますね。


科学技術の発展があるからこそ、
その対極にある人の心としての表現を忘れてはいけない。
この展覧会では、そのようなことを考えさせられるのでした。




その他にも、
東北地方にあるリアスアーク美術館による、
東日本大震災を取り扱った展示などが
すごかったです。
アートというよりも、資料館でした。
被災地の写真や資料など、
取り上げられ方がとてもダイレクトで、
心にずしーんと響きました。
思わず涙が出てしまった。。。



これからの社会の在り方、
自分自身の社会的立場や身の置き方、
心の在り方や人として有るべき姿を考えさせられました。


確かに、東日本大震災を機に、
私自身の価値観が様変わりしたんだったなー。と、思い出しました。
今までは、好き勝手に生きて、好きなことだけしていたし、自分さえ良ければそれで良かった。
自分だけが楽しくて、自分の夢が叶うことだけを考えていた。


でも、震災が起こってから、
それではもう、ダメな時代なんだ、
人の役に立ちたい、
社会的に役立ちたい、人に貢献したい、
自分に何ができるのだろうか、
と、模索し続けた。


そして、今の自分、今の立場になったんだった、
ということを思い出しました。

ここに、リアスアーク美術館からの、心に残った言葉の数々を書き留めたいと思います。


『個人として自分自身の今日明日を優先させるのではなく社会の一員として社会の過去現在未来を優先しその復旧に勤めなければならない』

『歴史を学ぶことは未来を創造することに等しい 』

『文化とは形ある物質的なものではなく、積み重ねられた人々の暮らしの記憶そのもののことだ』

『津波は形あるものを破壊し尽くすだろう。しかしそれでも、文化を破壊することはできない。、なぜなら文化はものではないからだ』


『家には記憶が宿っている 家を失うとは記憶の拠り所を失うことだ』

『気仙沼市内から公園が消えた』


『東日本大震災以降、被災地や被災した人々は、他の人たちが想像することが難しいほどの経験をし、価値観も以前のものではなくなった。
被災した私たちの言葉は、被災していない人たちにはうまく伝わらない。
また逆もしかりである。
改めてお互いがお互いを知る努力が必要である。どちらか一方が努力するのではない。お互いがわかり合おうとすることが必要である。
そうしなければ、我々は共通の言葉を失うことになる。』




今はどのような時代であるのか
私たちは何を考えどう有るべきか。

東日本大震災を経て
原発事故を経験した私たちは、
明らかに三年前のトリエンナーレのときとは、違う場所に立ち、
違う景色を見ている。


あの頃と変わらないまま物事を同じ視点で見ているわけにはいかない。
そうあるべきではない。
物をよく見て、よく知って、よく考えて、
そして自分自身の社会や他人に対する立ち意味を考えていくこと。


そんなことを考えさせられたのでした。

オアシス21








愛知県美術館10階からの眺め。









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[ 2013/11/05 20:35 ] アート | TB(0) | CM(0)

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