
最近は、毎月、手帳の月カレンダーの余白に必ず今月の目標や達成すること、やりたいことを書き込み、
更に細かく、週の頭に今週やるべきことや目標を立て、更に分かりやすく表やグラフにすることを心がけている。
そして一日の終わりには必ず、今日やったことと、今日やれたことをなるべく細かく手帳に書くことを習慣にしている。
今月の目標も週の目標も、やりきったら丸をつけていく。
そうして、やれたこともやれなかったことも含めて、今日を省み、完了していくのだ。
この作業をしないで眠ると、とても気持ち悪い。
手帳と向き合う時間は、一日の中で自分自身と向き合う時間。

そして、自分が主役の物語を紡いでいるようで、とても好きだ。
この作業は、中学生の頃からずっと続けていた。
(小学校時代も長期休暇は自主的に大学ノート何冊分も日記をつけていて未だ残ってる(笑)


勝手に先生に提出して感想コメントを貰っていた



また、雨の日は自宅から見渡せる鶴見川をボーッと見つめて、叙情的な文章が思い浮かび、勝手に原稿用紙にペンを走らせたり、家族の様子をみていて家族のエッセイを書いたりした

頭に浮かんだ馬鹿馬鹿しいギャグ小説もさっと走り書きしたり。それを読んだ親バカな両親が親戚中や先生に原稿を触れ歩き、おかげで市や県の大会でむやみやたらに作文で入賞していた、小学校時代。文章は、自分自身そのものだったな~)
その甲斐あってか、
文章を書くテクニックも語彙力もないし、完全に独りよがりな感性だが、私にとって書くことは昔から本当に精神安定剤だったし、身近な存在であり、

ザ

私自身

なのだ

(この文章能力でよく言うよね


)
中学時代、高校時代の手帳を見ると、ぎっしり物事が書き込まれていて、そのときの心境や好きな曲、ニュースなどの走り書きもあれば、読んだ本、勉強時間、好きなひと、遊びに行った場所、デートでの話、嬉しかった言葉なども細かく書かれていて、当時の心境をリアルに振り返ることができる。あ、基本的にいいことしか書き残さないけどね。
(赤裸々だし濃厚だし膨大すぎて、自分が不慮の事故などで死んだとき、こいつらどうしようかと本気で悩んでいる…(笑)



これが後世に残っていることだけが未練で成仏できなさそう…かと言って、膨大な私自身、私の記録を、生前に捨てることはできない。)
この手帳は大学時代に入ってからもしばらくずーっと続けていたけれど
(なんとうちの母も同じことを学生時代から現在まで…毎日ずっと続けている。私らの赤ちゃん時代も、喋れるようになった言葉も、遊びに行った場所も、私の朝帰りまで



(笑)…遺伝かな?)
大学四年の頃かな???
blogが流行り、mixiやグリーを始め、Web上に日記を公開するようになってから、手書きの日記や手帳を軽視するようになり、
手帳には月カレンダーに予定を書き込むぐらいで、スッカラカンになってしまった。
何の感情も詳細も残せないまま、中身の薄い生活を送るようになっていった。
(代わりにWebの日記が主流で濃厚な私だけど、これも、こう見えて本当の本音ばかりか?というと、建前のときもあるし、書き残すまでもない程小さくてくだらなくて、しょーもない物事は、どうしても一握の砂のようにこぼれ落ちてしまうじゃない??)
そんな生活が5年ほど続いていたわけだけれど、
知ってるひとが周りに殆どいないところで一人暮らしを始めた私は、完全アナーキー状態




時間もお金も若さも生命力も可能性も能力も、どれだけ無駄遣いしたか分からない。
時間を無駄にするひとに大成する者がいないことは分かっているし、
時間を無駄に使うひとが自分の目標や願望を叶えられるわけがないことも知ってる。
もっと言えば時間を無駄にしているひとは、自分自身の生命をも無駄にしているひと



…そうは言っても、フリーダムでアナーキー状態では、人はどんどんダメになってゆく。
水は低いところに流れますからね



結局は、私が普段声を大にして叫んでいる

自由

なんて、管理された不自由さの中でしか感じられないということと、(おのれは中世の革命家か

)
人間は統治、管理、支配されてようやく役割や能力を発揮するのだと言うことを、
本当に自由になってみて初めて実感する。
(むしろ本当に物質的に自由なひとはむしろ精神的に窮屈さや不自由さを感じたりする。ニートなんかみてごらんよ?)
…んで、結局は。
自己を制することができる者は自分自身以外には有り得ない、と悟るのである。
(…んまぁ、どこで誰と生活していようが、普通はみんな当たり前のようにできることだと思うんですが…。ワタクシはそれが人一倍苦手ナノデース)
人間暴走車のワタクシは、長所…自由、ズボラ、適当、だらしなくても気にしない(笑)

短所…自己管理できない、ルーズ、だらしない、ズボラ、適当、自由…なので(笑)
毎日毎日毎日、どんなに小さな出来事でも事細かに計画して、自分自身を管理・束縛し、更には「よくできました

」と褒めていただかなきゃ、いかんせんやる気が沸かず、「ま、いっか~」で過ぎ去っていくので

手帳管理

が見事に復活しましたノダ。
ここ一年ぐらい毎日欠かさずね。
そして、昔は起こった出来事をただただメモするだけに過ぎなかったけれど、最近は必ず


次の日の予定や目標、出かける時間、行く場所、やること、やるべき家事、支払いするもの、郵送物、勉強するもの、練習内容などを必ず翌日のスペースに書くようにしてんだ。
そして、その通りに翌日を過ごすと、なんだかゲーム感覚で、すべて達成したら超嬉しくなる。
最近は、翌日の予定を手帳に書くと、早く達成したくて、嫌でもそのように身体が動くし実行する。
そして、◎をつけたときの快感といったら




最近は、お金の支払いも家事の手順も使うお金も買い物も、勉強のノルマも仕事も、手帳がないと動けないな~。
…んで、出来なかったことも自分を卑下したりはせず、また翌日に回したり、全体グラフを見比べて別日に組み込んだりする。
やる気のでない日は、目標の一個だけでもいいから、こなす努力をする。
小さなことでいいの。
例えば「布団を干す」とか「シャンプー買い足す」「この部分だけ床掃除」とかさ(笑)
それだけで、日々のモチベーションも違うし、フカフカのお布団も、ピカピカの床も、また一段と気持ち良かったり

あとは嬉しかったことや、嬉しい言葉もメモしておく。言葉のシャワーで水やりすることが自分自身の栄養となって大きく成長することが分かってきたから


…なんかプラスの言葉ばかり書き留めていたら、心なしかマイナスに引っ張られることは少なくなってきたかも。
そりゃあ毒吐きは大事だしたまにはドドーンと落ちるけど、自分の力でモトに戻ることが簡単になった。
結局頼れるのは最後は自分だしね。
他人の励ましやなにかの言葉や影響をアテにしなければ立ち直れないようじゃ、自分の足で立つことはできないから。
なんとかして、自分で自分を奮い立たせたり、受け入れたり、励ましたり、向き合ったりするしかない。
そんなときに手帳に吐き出す自分の言葉は何よりも凄く心強い


そうして、
私が今吐き出している言葉の数々は、私自身のものではなく、色んな出会いや、色んなひとの言葉や、時や経験、影響、そしてそれをキャッチする自分の感受性のアンテナで作りあげられた、全く新しいものでもあり、既に昔から存在していた既成のものであることも私は知っている。
そして様々な時代や出来事や価値観を経て、今私の中に自分の言葉として投入される、手帳と向き合う時間が、何よりも私を強くしてくれる。
過去も未来も現在も詰まっている場所。時間。
…なーんて

そうこう長々と書きながら、結局なにが言いたかったかと言うと、
実は。
…先日、2月の目標をmixi日記に書いたけれど、1月の反省と回想をせず、完了しないまま2月に入ってしまったので、






















1月の回想録






















を記そうと思っただけなのさ




それなのに、なぜに手帳ひとつでここまで安っぽい哲学的な内容に??



最近読んでる本やオペラの影響かしら??




…しかし何事にも哲学する心は持ち合わせていたいよね

じゃないと、「人間は考える葦である」というニュートンの言葉を借りると、人間は考えないと、葦以外だからだ


デカルトの「我思ふ故に我あり」という言葉も大好きです


(高校時代は無理矢理覚えさせられてイミフだし大嫌いだったが。しかし考えてみてよ?女子高生にこんなの無理矢理覚えさせるなんてナンセンスじゃない?考えナシに目先の流行に飛び乗ってナンボのお年頃やん


我なんて考えねーよ

)
…ってなわけで、
1月の反省は長くなったので次の日記にて書きます


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