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グレート・ギャッツビーの華麗なる時代





先日は仕事帰りにSoup Stock Tokyoに立ち寄ってスープをW飲み~。
スタンゲッツをイヤホンで聴きながら、まったり読書をしてました。
ブログでも何度もご紹介しているのですが、私のお気に入りの小説のひとつ
F・スコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャッツビー」。


2010年10月21日ブログ
http://chatotone.blog.fc2.com/blog-entry-913.html
2011年3月2日のブログ
http://chatotone.blog.fc2.com/blog-entry-911.html


絢爛豪華に咲き誇るもむなしく、儚く散りゆく花びらのような物語。

享楽と世俗にまみれたギャッツビーの中にひそかに潜む、
常に高みを目指す健気さと、夢を追い続ける懸命さ、
狂おしいまでに純真な恋を胸に抱き続けるギャッツビーに
とても共感を覚えていて、自分と重ね合わせる部分もありながら、
また、それに反して、憤りを感じるまでの世の中の不条理さ、いい加減さに
うんうん、そうそう!!と相槌を打ちながら、
とにかく大好きで1年に一度は必ず読み返しております。



野崎孝さん、村上春樹さん、小川高義さんの訳をそれぞれ読んだのですが、
一番読みやすく、またギャッツビーが人間臭くて、ときにかわいらしくて、
ありありと情景が思い浮かび、うんと感情移入できたのが
小川高義さんの訳。


また新鮮な感動がこみ上げてきました。



時代は1920年代のアメリカ。禁酒法・ギャングが蔓延したジャズエイジ。
(↑上述のURLのブログ参照。)

フィッツジェラルドの言葉を借りれば
舞台は「川の向こうの、白く、うずたかく、角砂糖のように立ち上がる大都会。
うさんくさい金をうさんくさいと思わず、金で願い事をかなえた街」。


その郊外のイーストエッグの大豪邸に住むギャッツビーと
主人公「ぼく」との出会いにより、この物語が花開きます。


時代に翻弄され、典型的な「アメリカンドリーム」を追いかけた
ギャッツビー青年の儚くも切ない恋のお話です。



これを初めて読んだ頃、フランスの名作映画『シェルブールの雨傘』を
観たばかりだったので、このふたつの物語に、私は共通の、
胸の柔らかい部分を掴まれ、息もできなくなるような切なさを覚えたのです。


両作とも、時代も国も違うのですが、
「兵役に行き、すれ違う二人の若い男女」
「もう後戻りのできない甘い過去」
という点を絶妙に描いている、という点で、通じるものがあるのかな、、、と。


ギャッツビーの現在の華麗な姿は、
実は17歳の頃に自分が思い描いた理想像で、こうなろうと決意し、
そのために必死に努力を費やしてきて、追い求めてきたそのままでした。

この部分、すごくよく共感できます。
私も、子供の頃から「こうなりたい自分」「こうなっていたい自分」というのが、
多分人一倍強くて、
その理想を辿っているときの自分はとても幸せで満ち足りており、
努力を怠り、その道から外れてしまったときの自分は、
すごく嫌いで自己嫌悪に陥ります。





良く言えば「向上心がある」と評され
悪く言えば「理想が高すぎる」「自己承認が低い」
ってことなんですけど。



しかし、
ときにそれが今の自分自身を縛りつけ、
今の自分の行動を制限し、
果たしてこれは本当の自分なのか???
ウソ偽りの姿を演じているのでは???

と思うことが多々ありました。
自分に無理をさせている、というか。。。。
「こうでなければならない」という自分への思い込みが強すぎる、というか。。。



大人になってから、だーいぶ緩くなり、かなりナチュラルで
みっともない自分になりましたけど、
それでもやはり、子供の頃に見た夢を未だに追いかけ続け、
社会の流れと逆行している節は根強くあります。


だけど、努力すれば必ず叶う、という思い込み!?は、
大人になるにつれて、必ずしもそうではないのだ、ということを
この小説は語りかけてきます。


印象的なのは、以下の文章。


「私は砂に座って、遠い昔の未知の世界に想いを馳せながら、
青々とした芝生にたどり着くまでには長い道のりがあったはずだ。
ここまできたら、ほんの少しで夢に手が届きそうで、
掴み損なうことがあるとは考えなかったろう。
夢が後ろにあるとは思いもよらなかった。
もう夢は、都会の向こうに広がる巨大な闇、この国の暗い原野が
うねって続く夜のせかいへ言っている。

ギャッツビーは緑の灯を信じた。悦楽の未来を信じた。
それが年々遠ざかる。するりと逃げるものだった。
いや、だからといって何なのか。あすはもっと早く走ればよい、
もっと腕を伸ばせばよい・・・そのうちに、ある晴れた朝がきてーー

だから夢中で漕いでいる。
流れに逆らう船である。そして、いつでも過去へ戻される。」

(※小川高義さん訳より引用。)



夢を追い続け、着実に、忠実に、たゆまぬ努力を続けても
ある日突如として、その道を閉ざされることがある。
それが、この小説の中に描かれていますし、
例えば、震災などという災害で、夢の途中で断念しなければならないこともあるのだと、
改めて気付かされ、とても悲しい気分になるのです。



私自身も未だ理想を追いかけ、まだまだしぶとく夢の途中ではあるのですが、
その夢が、どうにもかなわなくなる、そんな日がある日突然やってきたら、どうなるだろう。。。。。




そして、健気でまっすぐなギャッツビーの周りをうろつく人間模様は、
こんな有様。




「このトムは、私から見れば、許せない男、いけすかない男。
とった行動は正当であると自分では理屈を通しているようだ。
いいかげんの極地である。トムもデイジーもいいかげんにできている。
まわりにあるもの、生きるものをすべてぶち壊しにしておいて、
金銭というか、いいかげんな態度というか、ともかく
二人を結びつけている原理に戻って、ごたごたの後片付けは人任せ…。」
(※同じく小川さんの訳より引用。)

うんうん、そうなのです。

見かけだけの金や華やかさ、見た目などだけで
寄りついてくる腐った人間って必ずいる。
そういう人たちに限って、浅くていい加減な繋がりなのです。

どんなに相手のために誠実にこちらが義理を尽き通しても、
あのときのご恩やなんやらはどこへやら。
いい加減にできてる人種は必ずいます。
そして私の周りにも、たくさんうろついてました。
もう、殆どいなくなりましたけどね。


こういう人間関係は築きたくないなぁ・・・。
そう思ってから、自分の周りには心から尊敬できるような
とてもいい人ばかりが残ってくれました。


でも、世の中の大半がいい加減にできている、と思います。
適当にやりすごしている、というか、
自分さえよければいい、みたいな。
昨年の震災の折にも、幻滅する節がたくさんありましたしね。
だからこそ、こんな世の中に何を期待して、どう生きるか、
だと思っているのですけれど。


本当の豊かさって、
富や名声や見かけだけの華やかさではなくて、
例え何もなくても、例えば自分が祝福されるべきときに
大勢の人がいかに心から喜んでくれるかだと思うし、
例え自分が死んだときに、たくさんの人が涙を流してくれる、
そういう人生じゃないかな、


と、この小説を読むたびに思います。


ウソ偽りの人間関係、
尊敬できない上司や先輩にしか頼れない、
自分のことしか見えていない、
そんな人生しか知らないひとは、不幸せだ。


私は、そんな人間関係に媚びていくしかないならいらない。
だから必要だと思うものしか、もはや選ばない。


「グレート・ギャッツビー」を読み返すたびに、
ふと自分の在り方と照らし合わせてしまいます。




グレート・ギャッツビー、映画化もされているらしい。
いつか観てみたいな♪
(フィッツジェラルドの作品「ベンジャミン・バトン」の映画は観ましたが。)





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[ 2012/03/20 21:22 ] 読書 | TB(0) | CM(0)

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